2008年7月8日火曜日

アルベルト・ジャコメッティ―本質を見つめる芸術家

アンリ・カルティエ=ブレッソンのDVDを見てから、アート系DVDにはまりつつある。
なかなか面白い。
今回、手に取ったのは「アルベルト・ジャコメッティ―本質を見つめる芸術家」。

シュルレアリスム運動参加していた時代には、「夢見る横たわる女(1929)」などキュビズムの影響を受けた作品を残し、往年は針金のように細長く引き伸ばされた人の彫刻で有名な芸術家である。

DVDでジャコメッティは、
「彫刻は美しいものではない 見えるものを少しでも理解しようとする手段なのだ
どんな頭部だって私をひきつけ驚嘆させる 彫刻はその理由を知る手段なのだ
また 絵画と言う手段は人や木や卓上のモノがなぜ私をこれほど惹きつけるか
驚嘆させるかを理解する手段だ」
と言っている。
常に本質を探究しようとするその姿勢が、創作活動の原点だったのだろう。
また、その焦点は"頭部"、特に"視線"に向けられていた。
「生きている唯一のものは人の視線だ 
 残りの頭の形はむしろ頭蓋骨にすぎない
 生者と死者の違いを成すのは視線なのだ」
と語りかける。

視線。。。"目力"という言葉が、少し前にはやりましたが"目は口ほどにモノを言う"というように、自分が自分であることを相手に伝えるには目が一番なのかもしれない。また常に変化しとらえどころがない存在としては、人の魂と同期するものなのかもしれない。

なんか目の観察が趣味になりそうなので、怪しい人に思われないように気をつけないといけない。

それと、ジャコメッティは本質を追及する人間として素敵な言葉を残している。
「成功と失敗は根底では同じだ むしろ失敗が成功に不可欠だ
 失敗すれば失敗するほど何かが生まれてくるように思える
 私が進歩を感じるのは 肉付けしているナイフを どう握っているのか
 もう分からなくなっている時だ 全く途方に暮れてしまい 
 でもなんとか続けることができると愚かになった時 それこそ進歩の好機なのだ」
無の境地に近い心境なのだろうか。瞬間を充実させるフロー理論に近い考えだろう。
夢中になったとき、人は想像以上の力を発揮し、その結果成長するのだと思う。
後、心に残ったことは、ジャコメッティは、よく創った作品を壊したという事実。
常に変わり続ける世界を対象にすると、どんな作品も満足できないためだそうです。
そうなると、すべての作品は完成していないし、作業に終わりがないのだろう。

本質に対する探求は、終わりなき旅ということか。。。私の探求のたびや如何にそんなことを考えさせられてしまった。

2008年7月1日火曜日

猫の印象派

近くの図書館で素敵な画集に出会った。
「猫の印象派」。スーザン ハーバート(Susan Herbert)の画集だ。

実は、私は大の猫好き。
昔は犬が好きだったのだが、、、ある日突然、家に猫が居座り、占拠されると、気づいたら猫好きに洗脳されていた。
「猫の印象派」は、猫好きの方であれば必ず好きになる画集だと思う。

名画の人物像を猫で置き換えて描かれたその絵は、もしも猫の世界が存在したらどうなっていたのか想像がかきたてる一冊。
素敵な本である。

私の一番のお気に入りは、ルノアール「日傘をさす女」を表現した作品。


またその他にも、インターネット上では"ロミオとジュリエット"シリーズの素敵な作品が存在している。


2008年6月18日水曜日

アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶

週末、何気なく手に取ったDVD。
去年、東京国立近代美術館以来の対面になる。(写真に納まる決定的瞬間

内容は、あまり人前で語らないアンリと関係者が語るドキュメンタリー。
言葉少なげに、でもとても嬉しそうに写真を説明するアンリの表情が心に残る作品だ。

瞬間の記憶という副題からも分かると思うが、
映像の中でアンリは「写真は瞬間の芸術だ」と説明をする。
更に、実際に写真を取るときの瞬間について「その瞬間を選ぶ楽しさ いいぞ まだだ よし 今だ!」と説明する姿から、過去から未来へ続く時間の流れを、どのタイミングで写真におさめるか、とても楽しんでいるのが伝わってきた。

また、写真の内容については、
「構図が正しければトリミングは必要ない 疑う視線とあとは表現のセンスだ 人はあれこれと考えた末―考えすぎてしまう」
「方針や法則などない 勘かな」と事もなげに説明。

アンリに、方針や法則が無いとは思わないが、最後は自分が持っている感性なのだろう。
写真を見て刺激を受けるのも感性なら、その瞬間をとらえて写真に収めるのも感性が必要だということだ。
そのためには、「疑う視線」がポイント。何気ない現実も「疑う視線」で見ると見えないものが目に入ってくる。
納得である。

ちなみに、ジャコメッティとドガの「疑う視線」について、アンリが高く評価していたので、彼らの絵画を色々と見てまわりたいと思う。

最後に、アンリがシュルレアリスムに影響を受けている時代に撮影した写真を一枚。
一度見たら、ストーリーが心に残る一枚である。

2008年3月23日日曜日

飽くなき探究心を持つマティス

ニースの美術館訪問、最後を飾るのはマティス美術館
シミエの丘にあるその美術館は一見豪華な装飾が施された建物に思える。
しかし、近づいてみると窓の周りはだまし絵であることが分かる。
そんな美術館の中には、マティスがその生涯で探求した美術作品の数々展示されている。

コレクションは絵画、デッサン、彫刻とバラエティーに富、またその技法も年代を重ねるごとに移り変わる。
その様子から、マティスの思考回路を垣間見ることができとても面白い空間であった。


その中で、特に目を引いたのがグアッシュ切り絵の作品。
「青い裸婦Ⅳ」「萱の中の浴女」

"青と白のコントラスト"そして"切り絵としての2次元空間に対する立体感"により感じる人の存在感。
たぶん、マティスがたどり着いた美に対するひとつの独特な答えなのであろう。

ある対象から受けた感動を直接的に表現し伝えるためには、その感動を一旦自分の中に取り込み単純化、純粋化することが一つの答えなのかもしれない。

その時、目に映る外見的な世界ではなく、内面的、概念的な世界へ自分の審美眼を向ける必要があるのだろう。

マティスの作品に触れるとにより、複雑化する世界から本質や真実を抽出することの大変さと重要性を再認識させらると思う。
(ちなみに、仕事でも本質を捉えることが重要であることは変わらないだろう)

2008年2月24日日曜日

シャガールの「白い虹」

白い虹を見たことがあるのだろうか?

私は、ニースのシャガール美術館で出会うことができた。
「Noé et l’arc-en-ciel (ノアと虹)」


緑がかったキャンバスにそれははっきりと強く描かれていた。
意識が白い虹に集中する。
今まで見たどの虹より、虹らしく見えるのがなぜか分からずにたたずんでしまった。
色のグラデーションが綺麗で見とれていたはずの虹が、白であることの方が素敵だと思える。
そんな心の反応がなぜか心地よかった。

昔から虹は7色と思い込みがある。
でも、本当は白い虹を望んでいる自分がいたのだろう。
それが、一枚の絵を見ることにより隠れた思いが心の中から湧き出してきのだ。
だから心地いい気分になったのだと思う。

色を自在に操るシャガールはきっと、心の色を絵として表現するのが得意な人だったのだとつくづく思った。

ちなみに、検索で「白い虹」と調べると、実際の自然現象としての情報がたくさん出てきた。
もし、出会えたら自分はどう思うのか?今から待ちどうしい気分になった。

Jaume Plensa(ジャウメ・プレンサ)の衝撃

仕事でニースを訪れたタイミングでニース現代美術館を訪問。
ちょうど、Jaume Plensaの展示が開催されていたため、彼の作品に触れることができた。

その出会いは本当に衝撃だった。
魂が揺さぶられたのだ。その中で一番魂を揺さぶった作品が「Overflow 2007」。

文字、言葉がつなぎ合わされることにより、ひざを組んでたたずむ人の形になっている作品だ。
影も、文字としてその存在を誇示している。そんな作品である。
人間とは本質的に何なのか。そんな問いに向き合える作品だ。
人が発言した言葉の内容から、その人とはどんな人物なのか自分の頭の中に創り出す。
そう考えると、人は言葉により創り上げられた存在と理解できる。
言葉が全てではないが、言葉により形が与えられるものが存在する。
そんなことを気づかせてくれた作品だ。

もう一つ作品を紹介。
「Semen-Blood, 1999/Sex-Religion, 2005/Love-Hate, 2005/Saint-Sinner, 2005/Matter-Spirit, 2005Bronze, corde, bois, laine, Diametre : 130cm chacun et Self Portrait with Seas, 2006, marbre blanc fondu」
音を鳴らすまでがこの作品の特徴。
それぞれの円には文字が刻まれている。
それを叩く、音が部屋中に響き渡る。その瞬間その部屋が荘厳な空気に変わる。
この空間を共有しているのは、ひざを抱ええ座っている作品と私。
そして、その間には響き渡る音。まるで作品と交信している気になり、違う世界へ連れ出された気分になった。

それと、マセナ広場(place Masséna)には、2004年のアートプロジェクトで作られたJaume Plensaの作品が並んでいた。
それは、人々が集うその場所を彩とりどりに輝くことにより、景色に花を添えていた。
ニースを訪れたのは8年振りということもあり、この近代化された空間は新鮮に映った。ただ心には違和感はなく、素直に景色が入り込んできた。
つい最近読んだ、「犬と鬼 知られざる日本の肖像」(アレックス・カー著)で訴えている、文化とは、歴史とは、そして現代、近代化とは何か。日本が京都を代表にその本来の美しい姿を近代化という名の下に無残にも壊している現状と、このマセナ広場の現状は異なっている。
人間が過去の上に作り出した空間が今後、未来に対してどのようなメッセージを残していくのか。街づくりと現代美術の関係について持つ思想の大切さを思い知らされた。
これからの人生、Jaume Plensaの作品にもっともっと出会っていきたい。。

2008年1月17日木曜日

熊谷守一美術館

日経BP社が出版している「ほんものの日本人」を読んだとき、鮮烈なイメージで一人の画家が脳裏に刻み込まれた。
その名は、熊谷守一氏
※文章抜粋※
そうまでしてたどりついたのが、守一の場合は「結局は何も描かない。白いキャンバスが一番美しい」という境地だった。画家が絵を描かないとは、人が呼吸を止めてしまうというぐらいの、切実で滑稽な到達だ。それでも、白いキャンバスがあれば、やはり画家はそれを汚してしまう。それが人間の情けなさなのだ、と守一は言う。

あまりに強烈で、あまりに純粋で、あまりに正直なその考えに自分の脳で、心で感情が消化しきれない状態になってしまった。

そのため、豊島区にある熊谷守一美術館を訪問。
1,2階が展示室で3階がギャラリーになっている。
飾られているのは、油採、墨絵・書など。

全体的に物事をシンプルに、単純に捉えていこうと思われたのか、晩年の作品になるにつれ「線と面で色を平ぬりする画法」に移り変わっているのが面白い。
勝手な想像だが、自分の考えとは裏腹に心の安穏を捜し求めたのかもしれない。。。

心を落ち着かせる存在、そんな絵が並べられているよう見えた。
絵を見ると、落ち着いて自分自身を見直せる、そんな気がしてきたのかもしれない。

特に好きな作品は3つ
油採の2作品、「縁側」「雨滴」と、墨絵・書の1作品「唯我独尊」(残念ながら画像が見つからず) 。

「人生、どのように時間を紡ぐかは本人の自由である。
だからこそ、大切にしなければならない。」
美術館を離れるときそんな言葉が自然と頭に浮かんできた。